東林院の歴史

過去の東林院
『堀江荘史』(大正七年発行)より

当院は、天平五年(733年)に行基によって開基されたと伝わります。その後、大同年間(806~810年)に弘法大師空海が御巡錫されて以来*1、真言密教の寺として紆余曲折がありながらも護持されてきました。

*1詳しくは「種蒔大師の由来」をご参照ください。

中世期の記録は、元禄年間(1700年頃)に起きた大火で焼失してしまったので詳しくはわかりませんが、京都石清水八幡宮に伝わる古文書「石清水文書」の治承二年(1178年)の記述にその存在が記されています。当院がある徳島県鳴門市大麻町大谷周辺は、平安時代より石清水八幡宮の荘園「堀江荘」であり、当院はその末社である大谷八幡宮の別当寺*2(神宮寺と称した)でありました。この神宮寺*3を中心として東林院・福重院・弥勒院など塔頭があり、その中でも東林院は戦国大名三好氏の祈願寺として12貫を領し*4、江戸初期には本寺の神宮寺や福重院などを吸収したものと考えられます。

*2 別当寺:江戸時代までは神社と寺は一体化しており、神社を管理する寺院のことを別当寺といいます。
*3 神宮寺:その土地の有力な神社の別当寺の寺号を神宮寺とすることが多かったようです。
なお、当院も寺号としては現在でも神宮寺と称しています(八葉山 東林院 神宮寺)。

*4 出典:阿州三好記大状前書

江戸時代になると、幕府の統制による本山末寺制や寺請制(檀家制度の元になった)のもと、東林院は高野山金剛峯寺を本山とし、末寺16ヶ寺を有する中本寺*5となります。特に、阿波の国の真言宗寺院のうち有力な中本寺が阿波八門首*6と呼ばれ、そのうちの一つに数えられました。

*5 中本寺:本山と末寺をつなぐ中間管理職的な寺院のことで、地方の有力寺院が担っていました。
*6 阿波八門首:太龍寺・鶴林寺・薬王寺・荘厳院(地蔵寺)・瑞川院・神應寺・隆禅寺・東林院。

この中でも当院は学問寺として栄え、多くの優れた僧侶を育て高野山に送り出しました。特に、哲眞阿闍梨は高野山を統括する第293世寺務検校執行法印(金剛峯寺座主)となり、出身のお寺である当院に弘法大師御衣(檜皮色の衣)*7を伝えました。その弟子の維宝阿闍梨は碩学として名を馳せ、空海編「文鏡秘府論」の注釈書を記し、また多くの優秀な弟子を育てました。また他にも、第325世寺務検校執行法印を務めた覚宝阿闍梨や、幕末の勤皇僧として有名な月照*8と交流し、明治天皇の父君孝明天皇の帰依を受け、高野山宝性院(現大本山宝寿院*9)第42世門主となった海雄上人(当院中興第19世*10)などがおられます。

*7 弘法大師の衣:法印が高野山内で執行される重要な法会の際、弘法大師の身代わりとなって着用する法衣。
この衣は現存しており希望者は拝観可能です。

*8 勤皇僧月照:江戸時代末期の浄土真宗の僧で攘夷論者。京都清水寺成就院の住職。俗名は玉井忍向。尊王攘夷運動を志し,寺を弟に譲って運動に身を投じた。吉田松陰、梅田雲浜、近衛忠煕、西郷隆盛らと交わり、安政の大獄を逃れて薩摩におもむいたが、藩が拒否したので西郷隆盛と錦江湾に入水自殺をはかり、隆盛は蘇生したが、月照は絶命した。
*9 大本山宝寿院:高野山で総本山金剛峯寺に次ぐ格式をもち、古義真言教学の二大学派を形成していた宝性院と無量寿院が合併した寺で、現在は専修学院という修行僧の養成所を兼ねています。
*10 中興:当院は既述の通り元禄年間の大火で記録を焼失したため、現存する過去帳で確認できる室町後期の浄範上人を中興第1世としています。

明治期になると、多くの真言宗寺院と同じく、神仏分離令に伴う廃仏毀釈運動の影響により経営基盤に大きな痛手を受け、山門などを失うことになりました。また大谷八幡宮は宇志比古神社となり*11、別の道を歩むことになります。

*11 大谷八幡宮の主神である八幡大菩薩や大般若経典六百巻は社殿から当院に移されました。

当時の住職を務めた理峰上人(中興第22世)は、若年より海雄上人の薫陶を受け、才気煥発かつ人格的にも大変優れた僧侶であったようで、未曽有の混乱期にも拘らず境内諸堂や寺宝の維持に努め檀信徒と共に苦難を乗り切り、また弟子の育成にも力を注いで学問寺の矜持を守り伝えました。その弟子には、高野山根本大塔の再建に尽力し、大正・昭和期の真言宗における傑僧として活躍した忍海和尚(中興第24世:後に徳島市寺町般若院住職となる)や高野山金剛流御詠歌の詠監として数多くの作詞を手掛けた禅海和尚(中興第25世)など十数名におよび、近隣寺院の範となりました。

その後、戦中戦後の大きな苦難を檀信徒と乗り越え、昭和五十九年(1984年)には、先代住職龍城和尚(中興第26世)を中心に檀信徒一丸となって長年の懸案であった本坊改築を成し遂げました。更には、現住職龍彦により25年間に及ぶ霊園墓地の整備事業が完遂され、約千基の墓と納骨堂を有する種蒔大師霊園を構えています。

現在、種蒔弘法大師御霊跡、四国八十八ヶ所霊場第一番奥之院、新四国曼荼羅霊場第一番札所、阿波北嶺薬師霊場第十六番札所といった霊場として、また檀信徒の先祖供養と安心の拠り所として護持発展に精進しております。
特に近年では、子どもさんからお年寄りまで様々な年代の方が集い非日常の空間を楽しむ場を目指し、開かれたお寺として定期的に音楽コンサートやアート展など様々なイベントを催しております。

住職 近藤龍彦

住職
近藤龍彦

副住職 加藤一真

副住職
加藤一真